2011/11
灯台の父 ブラントン君川 治


[日本の近代化と外国人 シリーズ 11]


犬吠埼灯台
 ブラントンが建設した千葉県の犬吠埼灯台を、8月下旬の快晴の日に訪ねた。
 この灯台を建設当時と比べると、ランプは電球に変わり、手動回転はモーター駆動に変わったが灯質は昔のままとされている。99段の螺旋階段は九十九里に因んで作られたそうだ。
 塔上の円形通路に出ると、岬の突端で強い風を受けるが素晴らしい眺めだ。この灯台の光達距離は約35kmである。資料館があり、当初使用された8面フレネルレンズが保存されている。
 若い頃、感動して見た映画に高峰秀子主演の「喜びも悲しみも幾歳月」がある。人里離れた岬の突端や離島などに設置された灯台を、航行の安全を守る使命感に燃えて維持管理する灯台守とその家族たちを生き生きと描いた木下恵介監督の映画だ。主題歌もヒットソングで今でも口ずさむことができる。
 わが国は海に囲まれた海洋国家で、物資の輸送は昔から船舶に頼っており、航行の安全のため、陸の目印として燈明台、篝火、神社の常夜灯などが使われていた。浦賀のヨットハーバーの脇に今でも「浦賀燈明台」が保存されている。燈明台の下部は番人小屋で、明治まで220年以上に亘って一日も灯を絶やさなかったと記されている。洋式灯台と異なる所は、反射鏡やレンズが無いことだけだ。
 
洋式灯台の建設
 1853年のペリー来航により日米和親条約を締結した。更に貿易拡大を強く要求されて、1858年に米国をはじめとして5カ国と通商修好条約を締結して、海外からの船舶の往来が急速に増加した。しかしながら攘夷運動も激しくなり、1864年に長州藩は関門海峡を通過する米艦を砲撃する下関事件が発生した。
 米英仏蘭4カ国により長州藩は反撃を受け、幕府は賠償金支払いと5港の開港を約束させられ、その後、賠償金削減と引き換えに灯台建設8ヶ所を約束させられた。剣埼灯台、観音埼灯台、野島埼灯台、神子元島灯台、樫野埼灯台、潮岬灯台、佐多岬灯台、伊王島灯台の8ヶ所は条約灯台と云うそうだ。
 幕府は急ぎの4ヶ所の灯台建設を横須賀造船所のフランス人技術者ヴェルニーに依頼し、それ以外をイギリス公使パークスに、灯台建設技術者派遣と共に機材を発注した。1868年に幕府が崩壊し、灯台建設は明治新政府に引き継がれた。
 
灯台技術者ブラントン
 リチャード・ヘンリー・ブラントンは1841年に、イギリスのスコットランドで英国海軍の艦長の息子として生まれた。長じて鉄道技師として技術を習得するが、イギリス本国での鉄道工事はブームに翳りがでており、技術者たちはインドやオーストラリアなど海外に仕事を求めていた。ブラントンはたまたま商務省が日本へ派遣する灯台技術者の選考をしているのを知り、これに応募して主席技術者として採用された。
 当時のイギリスは未だ技術者養成の学校など無く、その道で優れた先輩技術者の見習いとして実地研修する仕組みであった。灯台技術はスコットランド灯台局の灯台技師でデビット・スチブンソンとトーマス・スチブンソンの兄弟が灯台の設計をしており、ブラントンはこの灯台技師兄弟のもとで、3ヶ月間灯台の光学機械装置と灯台建設について技術習得をし、更に各地の灯台を巡回し実地研修をして1868年8月に来日した。
 最初の仕事は灯台建設場所の調査であった。これにはイギリス海軍の艦船を活用して、関東から中部、関西、九州と現地測量を行っている。次は工事資材などを運搬する灯台補給船の購入で、自ら船を選定し、イギリス海軍に船体調査を依頼し、さらに船長も自ら人選して日本政府に採用を働き掛けた。
 新しい灯台が完成すると世界中の国々と船舶に周知する必要がある。ブラントンは日本政府の航路告知では信頼をもって受け取られないと、自分が署名するイギリスの「航海者への告知」を主張するが、日本政府は拒否する。この航路告知は日本の灯台長官が発行し、ブラントンが技術者として署名することで解決した。職務遂行に熱心ではあるが、いささか強引である。
 運用開始した灯台の維持管理もイギリス人技術者を招聘し、助手として日本人を採用して技術習得させた。新たな灯台設置場所の選定にあたって、彼は日本政府に意向打診するのではなく、日本に往来する各国の船長の意見を聴取することから始めている。
 『私が関わっている灯台の仕事は、外国船舶の航行の安全を含む国際的な性格のものであることを強く認識していたので、私及び私のスタッフに対する冷遇には決然と立ち向かう決心をしていた。私の上司と私自身の間の意志の疎通は長い抗争の性質を帯び、双方に得点と失点を重ねながら続いた。工部省の長官・伊藤博文卿は非常に開明的な人物で私に好意をもっていたお陰で、結局私は多数の灯台を建設し、大過なく灯台の維持管理の良きシステムを組織することができた。しかしこの成功は熾烈な抗争の累積の上に達成されたものである』と彼は記述している。
 明治9年3月までの7年8か月の間にブラントンは、28ヶ所の灯台を建設した。良く名の知られた灯台を挙げると、犬吠埼灯台、潮岬灯台、石廊埼灯台、佐多岬灯台、神子元島灯台、伊王島灯台、友ヶ島灯台、御前埼灯台などがある。
 来日した多くの技術者たちが、近代化の遅れている日本でありながら優れた技術の素質を指摘しているが、この誇り高い英国技術者ブラントンは、日本の技術や日本人の性格について非常に手厳しい評価をしているのに驚かされる。一例を挙げると、犬吠埼灯台に使用する煉瓦について、ブラントンは、日本製の煉瓦は粗悪で使用できないとイギリスからの輸入を主張した。これに対し日本人灯台技術者・中沢孝政は、日本製煉瓦の品質向上に努めてブラントンの反対を押し切って使用した。この灯台は建設から135年以上も経つが、関東大震災にも耐えて、煉瓦造りの塔は当時のものだ。
 
灯台めぐり
 灯台は海岸線の風光明媚な所にあるので訪ねる楽しさがある。
 わが国最初に建設された観音埼灯台を訪ねた。最初の灯台は明治2年に造られ、フランス風の四角い煉瓦造り建物の上に塔が造られたものであった。2代目の灯台は関東大震災で崩れ、現在の灯台は3代目である。ヴェルニーは観音埼灯台の他、野島埼灯台(1869・12)、品川灯台(1970・3)、城ケ島灯台(1970・8)を作ったが、現存するのは品川灯台のみで、博物館明治村に保存されている。
 その後明治年間に建設された162ヶ所の灯台の内69ヶ所が現役で、現在も稼働している。産業遺産的な灯台は、神子元島灯台(明治3)、犬吠埼灯台(明治7)、御前埼灯台(明治7)、金崋山灯台(明治9)、美保関灯台(明治31)、室戸岬灯台(明治32)などがある。
 明治の最初、灯台建設管理は神奈川裁判所に置かれ、その後民部省土木司、工部省灯台寮と所管場所が変わるが、灯台管理は一貫して横浜に置かれた。1877年工部省灯台局、1885年逓信省灯台局となり、戦後は海上保安庁の所轄となっている。現在は広く航路標識として維持管理されており、光波標識5,140(うち、灯台は3,037)、電波標識として無線方向信号所90、双曲線航法20など、無線によるナビゲーションが主流となりつつある。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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